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魔法の世紀を作り上げるリトルピープルたちについてのおぼえがき

魔法の世紀を作り上げるリトルピープルたちについて

「メディアアート」と検索をかけてみると、それは「デジタルテクノロジーを駆使した芸術作品」と出てきます。

メディアアートは20世紀に入ってからの言葉で、テクノロジーの進化によって、それとともに産み出される芸術と言えるでしょう。
ただ、そこには客体的に存在する作品という枠を超えて、客とのインタラクティブな関係を産み出すという意味合いもあるように思えます。

最近なぜ、メディアアートについて考えているかというと、きっかけは宇野常寛さんの『リトル・ピープルの時代』を読んだからです。ではなぜ宇野常寛さんを読もうと思ったかというと、最近になって、落合陽一さんがいろいろバズっていたからです。

朧げながらに、落合陽一さんは宇野常寛さんと関係していたな(している?)と思い出し、宇野常寛さんの著作を、(『リトル・ピープルの時代』は以前購入し、積読状態ではありましたが)読んでみるに至ったわけです。

魔法とは

落合陽一さんの著作に『魔法の世紀』があります。文字通り、“魔法”とあります。
魔法とは、コンピュータの仕組みは分からないけれど、使いこなすことができる、というようにテクノロジーを駆使することで今まででは得られなかったアウトプットを得ることができることを言います。

そして、落合さんが言う、「デジタルネイチャー」とは、テクノロジーによって自然を分析するという、人間―自然の主客関係ではない、人間が自然をデジタルを駆使して構築していくという作業を指しているように思えます。

ここに、自然との複合的な関係という意味合いで、落合陽一さんによる“近代”への批判があると考えます。近代とは江藤淳が、その夏目漱石論で書いた、イギリスに行った漱石の挫折に表されるような状況といえます。

リトル・ピープルの時代

宇野常寛さんのいう“リトルピープル”たちは、個々人が一人の主体=父であり、情報の発信者であります。そして、リトルピープルの時代の到来は、“ビッグブラザー”=“大きな物語”の終焉の結果であり、そこでは全体を意味づけるようなコンテンツは不可能になります。

また、リトルピープルという個々の発信者から産み出される各コンテンツにより、コンテンツのインフレーションが起こり、ここでもまたコンテンツが意味を世界に与えるという構図は不可能になっています。

しかし、ここで宇野常寛さんは、各主体による過剰なコミュニケーションから生まれる“場”、コンテンツの重なり合いに現実を変えていくような可能性を見ています。それを、拡張現実(AR)と表しています。

現実を内部から変容させる

外部との関係で、“私たち”を語るのではなく、内部から、現実を上書きしていくことで現実を変容させるという点において、両者の考えは一致していると言えます。

落合陽一さんにとってはその方法がテクノロジーであり、宇野常寛さんにとっては重層的コミュニケーションだと言えます。

両者が描く未来の難しさ

落合陽一さんが考えるアートとはデジタルテクノロジーを駆使して価値を産み出していくことであり、実は誰もができることではないのです。それゆえに落合さんは最近は教育に関する発信に重きを置いているように思います。

一方の宇野常寛さんも、少し以前の話になってしまいますが、2013年のTEDxに登壇され、過剰なコミュニケーションを現実的に可能とするには巨大なアーキテクチャが必要だと言っています。ただ、この大人数を収容できるような巨大なアーキテクチャは各リトルピープルには構築不可能な代物で、大きな資本の力を必要とします。

考えられることは、コミュニケーションは可能だが、その成就には困難が伴うということだと思います。そして、最近の落合陽一さんの在りようは、未来の語り方の難しさを表しているように思えます。

どちらにせよ、お二人が語る言葉は2020年以降の日本を考える上で非常に需要になってくるだろうと思います。今後も著作等を読み、勉強していきたいと思います。そして、アートについて書いていきたいと思います。